「 小泉首相に難民支援策と集団的自衛権の問題整理と解決策望む 」
『週刊ダイヤモンド』 2001年10月13日号
オピニオン縦横無尽 第416回
10月2日にブレア英首相が労働党大会で行なった演説は、すばらしかった。BBCなどが中継したが、まさに政治は言葉、言葉は信念だと示していた。40分あまりの演説のなかで、ブレア首相はタリバン政権に対し、ビン・ラディンの引渡しを要求、身柄引渡しか政権の引渡しかと迫ったうえで、テロリストとは交渉しない、テロリストの行動の意味は理解しない、断じて戦うと宣言、「行動することの危険よりは、行動しないことの危険がはるかに大きい」と結んだ。
また、すでに450万人に上るアフガン難民についてはこう述べた。
「われわれは彼らの救出のために全力を尽くす。彼らのために住居と食糧と人間的な生活条件を整えることを約束する。そして戦いが終わったあと、これまで幾度も多くの先進国がしてきたように、彼らを見捨てて国外に去ることはしない。戦いのあとも彼らが安心して住めるような体制づくりに全力で手を尽くしていく」
同首相のスピーチはたびたび、拍手で中断されながら続いていったが、語られていく言葉のひとつひとつが生きていた。そして難民支援のくだりは、日本こそがどの国にも先駆けて世界に発信してほしい点だった。
同じ日、日本では臨時国会の冒頭、小泉首相が烈しく語った。
「世界中がテロリズムと戦っている時、日本だけがあれもできない、これもできないといって世界の孤児になってもいいのか」
日本の命運の最高責任者は、野党席からのヤジと怒号に向かって絶叫調で反撃の論を展開していたが、真実、日本国内の論は、他の自由主義諸国のそれとは大きく異なっている。
政府は米軍の後方支援について新しく法律をつくって対処する姿勢だ。新法は、集団的自衛権に関しての憲法解釈に触れずに、米軍への後方支援を可能にしようという意図で考え出された。
これまで日本国政府の解釈は、日本はたしかに集団的自衛権を有してはいるが、その権利の行使は許されていないというものだ。権利はあるが、その権利の行使は許されないというのは、一体全体どういうことなのか。
今回、本来ならば、この政府解釈、つまり内閣法制局が行なってきた憲法解釈を変えて、日本は集団的自衛権の行使をすることができると改めるのがよいのだ。だが、そのためには、国会での烈しい論戦は避けられず、時間もかかる。そこで対症療法として、新法の制定の選択をした。
現実論からいえば、あるいはこれが最も近い道なのかもしれない。しかし、新法制定だけで、この議論を終わらせてはならない。私たちはいい加減に、この国の憲法の歪(いびつ)さと、その解釈論の非合理を正面から見つめ直すべきだ。
自由党の小沢党首が、小泉首相に憲法論をたたかわせて、自衛隊を派兵せよと主張するのは、きわめて妥当な論だ。今回もまた、その場限りの小手先の術で急場をしのぎ、国家のあり方、その仕組みの根本である憲法問題から逃げてはならないと言っているのだ。
新法で対処し、米国とともにテロリズムに立ち向かう行動を起こすとともに、小泉首相は別途、憲法と集団的自衛権についての問題整理と解決策を考えよ。技術論でなく、この国の基本的システムを変えていく決意が必要だ。
また首相は武力行使はしないと言明したが、そのぶん、どんな方法で日本の存在を示すのか。日本国民と自由と民主主義を守るために、日本はどんな貢献をすべきなのか。首相は具体的に語るべきだ。たとえばその方策は、難民支援である。米軍支援の一方で、ブレア首相をしのぐほどの演説をし、日本の経済力をもって、強力な難民支援体制をつくりあげていく決意をも示すことが必要である。